脱炭素は本当に必要なのか
人類は地球の生態系から外れているのか?
温暖化が各所で取り上げられていますが、温室効果ガスとして二酸化炭素の削減が一番の論点になっています。まずは地球の生態系という観点から見てみましょう。植物も昆虫も、巨大な象も百獣の王ライオンも、すべての生物は地球の生態系の一部となって循環しているのは皆さん学校で習ったと思います。「世界人口白書2021」によると、世界の総人口は78億7500万人いるそうですが、人類はこの循環に入っているのでしょうか。確かに植物や動物を摂取していますが、人が他の動物に捕食されることは稀です。では埋葬した遺体はどうなるのか。日本など一部の国では火葬を行いますが、これは肉体の殆どを炭化させ蒸散させています。土葬の場合はゆっくりと微生物によって分解されて行きます。それはやがて他の生物に吸収されるので生態系に加わっていると考えられます。
巣やダムなど構造物を作る生物と人類の違い
次に人類が作る構造物について考えてみましょう。構造物を作るのは人類だけではありません。自然界にも構造物を作る生物は居ます。蟻塚を作るアリ、ミツバチやスズメバチ、或いは巣を守るためにダムまで作るビーバーなど、その構造物は様々です。では人類の構造物と何が違うのでしょうか。最も大きな違いは耐久性でしょう。他の生物の作り出すものは長くても10年程度、早ければ1年でまた自然に回帰します。人類の作り出すものは100年経っても完全には自然に回帰しない物も多くあります。17世紀の科学革命から急激に進化した科学の恩恵で、飛躍的に構造物の耐久性が高まり、何千年も形状を維持するものが既に存在しているかもしれません。では、そういった物を作り出している人類は地球の生態系からはみ出しているのでしょうか。短いスパンで考えれば、はみ出しているように見えます。しかし、何万年、何億年という長いスパンで考えれば、プラスチックなども自然に戻るのではないでしょうか。それならば人間の行為もまた、全て自然と言えるのではないでしょうか。
自然界で増え過ぎたものは淘汰される
肉食獣が増え過ぎれば、その餌となる草食獣が減る。草食獣が減れば肉食獣が減る。肉食獣が減れば草食獣が増える。草食獣が増えれば…と結局大きな時間軸で見るとある程度バランスが取れていくものです。人類の活動による二酸化炭素の排出が気にされていますが、1800年代の製造効率と現在の製造効率を比較すれば圧倒的に効率は向上していると思われます。つまり同じものを作っても昔よりも遥かに二酸化炭素排出量は少ないという事です。それよりも、今後さらに人類が増えていけば、やがて食糧難になるでしょう。地球上の作付面積は一定なので当然いつかは需要と供給のバランスが破綻します。そして人類が飽和したならいずれ人類も淘汰される対象に成るでしょう。
温暖化は止められるのか
そもそも地球は温暖化、寒冷化を繰り返してきました。現在の温暖化は単なる地球の通常サイクルであり、人類の手により多少は加速させたかもしれないが、地球としては想定の範囲内なのかもしれません。また、炭素循環という考え方も存在します。ざっくり言うと気温が上がれば風化が促進されて二酸化炭素は減り、気温が下がると風化が抑制されて二酸化炭素は増える、という地球規模の循環システムです。温暖化はこの炭素循環が要因だという論文も存在します。違う言い方をすれば長いスパンで見ると二酸化炭素の排出量削減に効果は無いと言うことです。だからといって二酸化炭素排出量をより加速させろという話ではありません。むしろ人類が唯一手に入れた科学技術という武器で環境を変化させる方法を考えるのが最も効率が良いのではないでしょうか。
科学で打開するのが人類らしさ
例えば、砂漠を緑地に変えて二酸化炭素の吸収量を増やす。例えば、東京ドームくらい巨大な冷却装置を高温化した各地に設置して周辺地域を冷却する。私の貧困な発想では今はこの程度しか思いつきませんが、科学を全面に出して立ち向かう方がむしろ人類らしいと思うのです。二酸化炭素濃度が2倍になったとしても直ちに人体に影響があるわけではありません。砂漠が緑化出来れば、いずれ二酸化炭素量も下降するかもしれません。冷却されれば住みやすい環境になるかもしれません。もちろん、これで温暖化が止まるわけではないでしょう。しかし、人類はこれまでも過酷な自然に対して順応するのではなく、自分たちで環境を作るという手段で生存域を拡大してきました。であるならば、科学で地球のサイクルに立ち向かう方が人類らしくて良いと考えます。
完全なジェンダーレス社会は作れるのか
生物学的性別と心理学的性別
生物学的には雄とは精子的なものを雌に渡す存在で、雌は卵子的なものと雄から受け取った精子的なものとを掛け合わせて子孫を生み出す存在である。一方、現在の心理学的性別は雄雌2択のように単純ではない。当然、性同一性障害の人も多く居るのが現実です。しかし、現代の医学において人間の雄雌を生物学的な意味で変える事は不可能です。では、見た目だけ変えればそれで良いのでしょうか。そもそも、性同一性障害とは何でしょうか。
何をもって同一性と言うのか
今までの教育が性の同一性を強要しているから障害と言われてしまうのではないでしょうか。ここから生物学的な性別を雄雌、心理学的な性別を男女とします。これまでの概念では、雄として生まれたら心は男でなければならないと言われます。この場合、心が女であると男性器の存在を悍ましく感じるのは当然と成ります。もしここで雄雌と男女は全く別であるとするならば、雄雌の機能に関しては違和感を感じなく成るのではないでしょうか。当然、法律的な問題も在るので、直ちに変えるのは無理でしょう。この考えが常識として受け入れられれば、人類の未来が変わるかもしれません。
雄雌と男女の概念を切り離す
雄雌と男女を切り離して考えることが可能になれば雄雄、或いは雌雌での婚姻が可能になり、よりジェンダーレスな社会に変わります。当然、同性ペアでは子供は生まれません。しかし、性同一性の概念そのものが無いので、性転換手術が不要になり生殖器が残っています。生殖器が残っているのであれば同性ペアが自分、或いはパートナーとの血縁がある子供を得ることが可能に成ります。ここで法律の壁がありますが、代理母や精子提供などによって同性ペアであっても、自分たちの子供を得ることが可能になります。
完全なジェンダーレスとは
ジェンダーレスな社会になれば愛する者同士が自由に恋愛し、婚姻し、子孫を残すことが可能でなければなりません。では、次に問題になるのは何でしょうか。そう、男と女と言う概念です。日本の婚姻の定義は男と女が行うものと定められています。当然、ジェンダーレスであれば男と男、女と女であっても婚姻可能である必要があります。そのためには夫、妻という定義から男女の定義を切り離す必要があります。例えば、夫を「世帯の主たる者」、妻を「世帯を共にする者」等と根本から変えれば、よりジェンダーレスな世界へと変化していくのではないでしょうか。もし雄雌、男女、夫妻と言った概念を切り離して考えられる社会や教育が、常識として受け入れられれば、差別やジェンダーレスによる少子化問題も改善されていくのではないでしょうか。
平和ボケ日本人達にとってウクライナ問題はファンタジー
ウクライナ人の気持ちが解る、と言ってるお花畑の住人
現在ロシアがウクライナに侵攻しており、幾度となく停戦協議が行われていますが、未だ出口は見えない状況です。この件に関して様々なメディアで色々な立場の人が発言しています。中には聞くに耐えない恥ずかしいものもあるようです。特に「ウクライナ国民の目線で考えると」や「ロシアの要求を飲んで早く停戦すべきだ」などという発言は腹が捩れそうです。平和ボケの日本人がいくら想像したところでウクライナが置かれているロシアからの脅威を完全に理解することなど出来るはずもないのです。だから「ロシアの要求を飲めば停戦できる」等と安易な物言いが出来るのです。第二次世界大戦で日本は降伏しました。現在は確かに復興し先進国の仲間入りも果たしています。しかし北方領土はロシア領土のままです。ロシアは一度手に入れたら返す気はないという現実を、この人達は理解していないのでしょう。
ウクライナは主権国家
そもそもウクライナ側は防衛しているだけです。ウクライナは主権国家であり、その行く末を決める権利があり、他国が口を出すのは内政干渉です。ロシアの勝手な論理で侵攻されているだけであるのに、なぜロシアの要求を飲まねばならないと言う話になるのでしょう。それは発言者が「平和ボケ日本人の代表」と言える思考の持ち主だからです。
NATOとロシアで政治的妥結すればといった趣旨の発言者が居ますが、これこそ部外者に主権国家の行く末を決めさせる理由がわからない。日本に例えるなら、ロシアに侵攻されたからアメリカとロシアで決めて良いですよ。と言っているようなものです。さらに言えば軍事侵攻を肯定する発言でもあります。戦争を仕掛けて勝てば相手が譲歩するものだと言う前例に成り、今後も同じ事が繰り返されるでしょう。
北海道の東部に謎の軍隊が突然出現して、あっという間に制圧されたらこの人はなんと言うんでしょうね。「気付かなかったのだから仕方ない。差し上げましょう。だって反対したら戦争になるから。」とでも言うのでしょうか。その後どんどん北海道が侵攻されても「相手の要求を飲みましょう。だって断ったら戦争が続くのだから。」というのでしょうか。まさに「平和ボケ日本代表」です。
譲れないものはその立場の人にしかわからない
ウクライナ側が提示している停戦の条件は至極当たり前の事しか言っていません。ロシア側の要求はあたかもウクライナがロシアの属国であるかのような内容です。ウクライナ国民はロシア側に譲歩すれば今後もロシアに怯える日々が続くことを肌で感じているのでしょう。でなければ死ぬかもしれない戦いに積極的に参加する市民が多いことの説明がつきません。ウクライナの人が戦争を求めたのではありません。ロシアが一方的に難癖をつけ、主張が通らないから戦争を仕掛けてきたのです。ウクライナ側には1ミリも譲歩する理由がありません。二度とこのような事が起こらないように、いかなる理由があっても、戦争を仕掛けた国に対して強い制裁を行う必要があります。
ウクライナで起こっている事は他人事ではない
これらの人は忘れているのでしょうか、日本もロシアの燐国です。もし第三次世界大戦が始まれば考えられる構図は、NATOとそれに同調する国々 対 ロシア、中国、北朝鮮の共産圏とその国に同調する国々となります。今、最も危険な共産圏3カ国に隣接しているのは日本と韓国だけです。危険な隣接国がロシアだけのウクライナでも現在のような結果なのに、なぜ日本が他人事だと思えるのでしょうか。もし最悪のシナリオが現実のものとなれば日本と韓国は真っ先に制圧されます。ウクライナ侵攻はそれ程危険を孕んでいるのです。在日、在韓アメリカ軍は、先のアフガニスタンの結果を考慮すると、戦況が優勢であれば留まるでしょうが、劣勢になれば兵士に危険が及ぶので撤退する可能性が高いでしょう。もちろん見捨てないとは言うでしょうが、アメリカもロシアの隣接国ですから自国の防衛が最重要となります。
お花畑の人にはせめて主戦論と防衛論を区別できる目を
戦争はしてはいけないというのが大前提です。しかし、攻め込まれているのに何もしない、或いは降伏やそれに近い妥協を強いられる結果を選択するのは為政者としては大問題です。そういう意味ではゼレンスキー大統領は最大限の努力をしていると思います。日本の平和ボケ発言を繰り返すお花畑の住人は有事には役に立たないことを証明しています。そういう人達が有事の瞬間に、為政者に成っていないことを心から祈るばかりです。
罪と罰と償いについて
罰と償いは別の話
犯罪の加害者は起訴され、裁判所において判決が言い渡されます。有罪の場合、その刑罰は罰金、禁錮、懲役、死刑などがあります。ドラマなどで受刑者が刑期を終えると、「罪を償ったのだから」と言うセリフが多く見られますが、私はいつも違和感を感じていました。
では、罪を償うにはこの刑罰を全うすれば良いのでしょうか。被害者が居ない、或いは微罪で被害者の処罰感情が弱い犯罪であればそれで良い場合もあります。しかし、刑期を全うしたと言うのは、単に司法上の責任を果たしただけです。
加害者側と被害者側の考え方の違い
「刑期を終える=罪を償った」と考えるのはあくまで「加害者側の理屈」であって、被害者側から見れば「まだなにも始まっていない」と考えるのが妥当でしょう。
なぜなら、たとえ収監されている間に改心したとしても、それは加害者本人の問題だからです。そんな事は被害者にとって関係のない事ですから、憤りは何も解消されません。
償いとは
償いとは何でしょう。頭を下げて許しを乞う言葉を発すれば、償いが終わったと言えるのでしょうか。その行為は「謝意を示した」だけであり、相手が赦さなければ「償いが終わった」とは言えないでしょう。「謝意を示した」と「償いが終わった」は分けて考えるべきです。
当然、被害者やその家族(遺族)が赦さない事もあるでしょう。赦さない理由は大きく二通り考えられます。
一つは加害者に謝る意志が感じられない場合です。これは加害者が悪いと思っていない、或いは形式的に謝意を示すことで、やり過ごそうとしている場合です。当然、被害者側に赦される訳が有りません。この場合は民事で訴えて慰謝料などを勝ち取ったとしても、支払われる事は期待できないかもしれません。
もう一つは、いくら謝意を示してもしても赦す事など出来ない場合です。例えば殺人罪や〇〇致死罪など被害者が死んでいる場合、或いは被害者がPTSDなど大きな精神的ダメージを受けている場合が考えられます。被害者側としてはそう簡単に赦せる内容ではありません。
被害者の処罰感情が強い犯罪においては、被害者に赦される事によって、初めて償ったと言えるのではないでしょうか。獄中からの言葉での謝罪や、釈放後の行動による謝罪など方法は様々ですが、それが被害者側に伝わり、本当に詫ているのだと感じられない限り、償いが終わることなど無いのです。
一生謝罪する覚悟を持つしか無い
それでは「一生謝罪して生きていくのか」と、思う方も居るでしょう。私は赦されないなら一生謝罪し続けるべきだと考えます。赦されない程の甚大な損害を与えたのだから、謝罪をし続けるしかないという事です。いずれ被害者側に伝わり、赦される日が来るかもしれませんが、赦されない事をしたという自覚は持ち続けるべきでしょう。
賞味期限切れの国際連合
既に実効性が失われた組織
2021年6月時点で193か国と世界最多の加盟国数を誇る組織であるが、そもそもの成立は第二次世界大戦終結後である。国際連盟の様々な反省を踏まえ、1945年10月24日に51ヵ国の加盟国で設立され、主たる活動目的は国際平和と安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現を掲げている。
現在この組織は掲げた目的を果たせているだろうか。台湾独立問題、北朝鮮の核問題、イスラエル問題、香港の実質的な中国への併合、南シナ海における中国の実効支配地域の拡大、ロシアによるドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国の一方的な独立宣言、それに伴うウクライナへの侵攻。これらの問題には共通点がある。全て常任理事国、或いは常任理事国に近い国の都合で解決できていない。今後もこの仕組みで運用するのはもはや無理があると考える。
常任理事国寄りなら何でもあり
常任理事国、及び常任理事国と強い協力関係にある国は、それ以外の国とのトラブルにおいて自国に都合が悪くならない限り、国連が関与する事を抑止できるルールがあります。それは「拒否権」です。このルールがある限り先に示した問題が解決する事などありえないのです。そもそも、拒否権は性善説が大前提となっています。つまり常任理事国が常に人道的(善)である必要があります。しかし、そもそも常任理事国の選定が第二次大戦の勝利国と言うのはおかしな話です。戦勝国は必ずしも善とは限りません。それでは、「戦争で勝てば善である」と言わんばかりです。終戦当時は戦勝国側の権利として考えられて作ったルールかもしれませんが、今となっては足枷でしか無いルールに成り下がっています。ロシアに至っては国が全く別物に成ったのにそのまま常任理事国として居続けています。他の常任理事国も、発足後80年近く経って事情が変わっている国もあるでしょう。現在ロシアがウクライナに侵攻していますが、他国は経済制裁などの間接的な制裁のみで直接的な制裁、つまり軍事的な制裁はどの国にも出来ないのです。これでは常任理事国側は何でもありです。それに常任理事国同士が争えば誰も止められません。つまり、米中問題や米露問題などが軍事的な方向へ傾倒してしまった場合、誰にも止められないという事です。
拒否権が賞味期限切れ
全ての国が武力行使を選択できない世界を作るには国際連合の仕組みでは不可能だということです。常任理事国の拒否権という特権がある限り世界に平和は訪れないのです。今こそ新しい枠組みを考える時期に来ているのではないでしょうか。
所ジョージであれ
stay hungry, stay foolish.どう訳すのが正解か
Steve Jobs(以下ジョブズ氏)のスピーチの締めくくりとして有名な1節である
Stay hungry, Stay foolish.
ですが、様々な人が独自に解釈をしており、面白そうなので私もこの仲間に入ってみようと思います。
「貪欲であれ、愚か者であれ」
という単純なものから、
「満足して歩みを止めるな。何より未来を渇望し、追い求めよ、インテリどもの言う常識に踊らされるな。それはあなたの牙を抜くための罠だ」
と言った、もはや原形が何なのかわからないほど勝手にデコレーションされた中二病的訳も多く見受けられます。私自身ジョブズ氏と直接対話したことは有りませんが、ジョブズ氏の言葉だということで日本人が誇大妄想し過ぎているようにしか見えません。あれこれと妄想を膨らませて、「私の訳ってスタイリッシュだろ」とマウントの取り合いになっているようで滑稽です。
アメリカ人があまり忖度をしないことや、空気を読むことを重要視していないことを考慮すると、最もストレートな「貪欲であれ、愚か者であれ」が最も近いのではないでしょうか。
単体で考えるから無理がある
「Stay hungry」と「Stay foolish」を別々に考えず一つの慣用句と考えれば無理なく捉えることが出来るのではないでしょうか。つまり単独で用いたときはそれぞれ「貪欲であれ」であり「愚か者であれ」となるのですが、一つの慣用句として考えれば「愚か者だと笑われても自らの欲望に従え」となり、よりストレートにジョブズ氏の意図が伝わるのではないでしょうか。
日本人限定で伝わる訳
「愚か者だと笑われても自らの欲望に従え」を、もっと要約するのであれば「子供心を持ち続けろ」でしょう。子供の頃は常識もわからないから、自分が思いついたら即行動に移していたのではないでしょうか。それが歳を重ねると常識や柵で躊躇し、思うように行動できなくなります。これを体現している有名人が居ることに気が付きました。その人の名前を使えば、あれこれ言葉を付け足さなくても日本人限定なら殆どの人に一発で伝わります。
「所ジョージであれ」です。
いじめは犯罪、聖域は詭弁
いじめという言葉が罪の意識を薄めている
いじめと言われる内容にも様々あります。身体的な暴力、持ち物を隠す・捨てる・破る、言葉による暴力(ネットによるものも同様)、無視、嫌がることを押し付けるなどが一般的でしょう。
私は、「いじめ」という言葉が罪の意識を薄めていると考えているので嫌いです。先程例に挙げた行為の殆どが刑法に抵触します。暴行罪、傷害罪、窃盗罪、器物損壊罪など、十分逮捕理由になります。無視や嫌がることを押し付けるなどはパワハラに当たります。
いじめは必ずしも見えるとは限らない
学校などではいじめは日常的に行われています。学校関係者の中には「我が校にいじめはありません」という方もいらっしゃるでしょう。はっきり言って、浅はかです。それどころか教師がいじめに参加していることもあります。
全校生徒が10人以下などの特殊な環境の学校であるなら、いじめが無い学校も存在するかもしれません。しかし、何百人も居る学校でいじめが全く無いと考える教師は、楽天的過ぎます。生徒のサインを見逃しているとしか考えられません。
そもそも、ハッキリ分かるようないじめをする人など、居るわけがありません。加害者は当然のことながら悪事だという自覚が有るからです。加害者側に「いじめているか」と問えば「いじめて(る認識は)ない」と答えるでしょう。なにせ「悪いことをしている」認識は有るのですから当然そういう答えになります。被害者側に、口裏を合わせるよう強要することも、日常的に行われていると考えるのが自然です。それに気付かないのは、想像力、洞察力が欠如していると言わざるを得ません。
「いじめはある」という大前提で調査を行わなければ、正しい調査結果が得られるわけがありません。
学校の対処は間違っている
現在の学校では、被害者側を保護という名目で隔離してカウンセリング等を行い、加害者側は特に隔離などせず「反省文を書かせる」程度のペナルティがせいぜいでしょう。これでは何もしてないに等しいでしょう。
ひどい学校なら加害者側に謝罪させ、被害者側に赦すよう「強要」してるでしょう。この場合はいじめを助長してるともとれます。なにせ「謝れば良いだけ」ですから反省などする訳がありません。
加害者側がさほどペナルティを受けなければ、「バレなければ良い」、「バレても大した問題にならない」という思想が増大し、後に犯罪行為などに発展しかねません。
ヨーロッパなどでは「いじめを行う人」は適応障害などの精神疾患を患っており、社会に馴染めるように成るまで隔離して治療すべきだと考えます。まるで日本とは逆ですが、この方がより現実の事象に合致しているように感じます。
罪を犯せば罰を受ける事を自覚させる
成人年齢の引き下げや凶悪犯罪の適応年齢引き下げなど、司法は世論に推される形で少年犯罪に対して厳しい方向に進んでいます。学校はこの事をもっと重く受け止めるべきです。学校の社会的体裁(実際には教師達の個人的な体裁)を気にして隠蔽すれば、悪いことをしても「バレなければ問題ない」という思想に傾倒していくでしょう。そうなれば人は、「どうすればバレないか」、「次こそはうまくやろう」などと、考えるようになるものです。
良くあろうとするのは難しいことです。人は普通であることを受け入れられなければ、悪くあろうと考えるものです。悪いことをすることで承認欲求を満たし、自分は特別な存在だと思うことができるからです。悪くあろうとするのは当人の勝手ですが、罪には罰が伴うと言う事実を自覚させるべきです。
「聖域」は隠蔽しやすくするための言い訳
学校内で問題が起きた場合によく取られる行動は、「継続的に指導、観察します」や「様子を見守りましょう」などと言って、最終的に有耶無耶にし隠蔽します。たとえ子供がやったことであっても、刑法などの法律に照らし合わせて、該当する場合は警察を通すべきです。
学校側は「聖域」と言う言葉を使って自分たちで処理しようとしますが、そもそも教師にそんな権限はありません。罪を裁けるのは判事のみに許された権限です。学校に関する法律を拡大解釈し、警察に委ねるか示談にさせるかを勝手に決めているだけです。
いじめに該当する可能性が在る全ての事柄は警察を通すべきです。立件するか、起訴猶予で様子を見るかは司法に委ね、学校はそれに応じた対応を検討し実施すべきです。
学校の中の出来事は学校で対処するという、「聖域」と言う名の「傲慢」が、犯罪予備軍の温床であるという事実を自覚し、もっと重く受け止めるべきです。