新型コロナにおける政策の問題点
新型コロナ政策の状況
現在は陽性者のうち軽症・無症状の患者は自宅、或いは宿泊施設などで隔離され、中等症以上は入院処置となるケースが多いようです。また、濃厚接触者と認定された人は自宅にて自主隔離とされています。濃厚接触者に関しては、陽性であるか不確かであるので自宅隔離以外の方法は難しいでしょう。
しかし、陽性者のうち軽症・無症状の人は自宅や宿泊施設で自主隔離となると拡散されてしまい、保健所の状況確認や食料配布なども煩雑になり非効率です。この状況を打破する方法を考えてみましょう。
一箇所にまとめれば良いだけ
これらの問題点は、保健所を通すから複雑化、遅延化するのでは無いでしょうか。保健所には従来通りの仕事、例えば家庭訪問、健康相談、健康診断や健康教育に専念して頂ければ、今のような混乱は減るでしょう。
指揮系統を効率化するために、厚生労働省から各都道府県へ管理者を派遣して頂き、現地の医師会と連携して、管理統括を行います。オペレーターは各地域で民間会社に協力して頂ければ、電話が繋がらない事や、確認の電話漏れなどの問題も減らせるでしょう。そういったノウハウは圧倒的に民間のほうが持っています。
また隔離施設は、自然災害時の避難所のように、大型施設などを利用すれば一気に解決されると考えます。例えば、公営や民営のイベントホールを借上げ、内部に仮設のベッドや生活スペースを確保します。イベント設営会社などに協力を要請すれば、ある程度プライバシーを考慮した複数階建ての仮設居住区も可能ではないでしょうか。
陽性者のうち、無症状や軽症の方全員に入って頂きます。その施設内では自由に移動してもらっても問題ないでしょう。なぜならそもそも皆さん罹患してるのでこれ以上罹患することが無いからです。
さらに、施設の収容人数にもよりますが、医師や看護師を数名配置し、完全防備で問診などに当たって頂き、容態悪化を確認したなら入院の手配を行い、陰性になれば帰宅して頂くなどの判断を委ねます。
これにより、巡回経過観察の漏れや。食料支援の遅延、漏れが防げるのではないでしょうか。
今からでも遅くはない
政策の問題点はもっと声高に言うべきで、それが採用されるかどうかなど関係ないことに気づき、今回の独り言の後悔に踏み切りました。実際まだまだ遅くはないと思います。特に一人暮らしの人にとっては現在の政策は、不安だらけ穴だらけだと思います。調整中の人たちも不安のまま時間がすぎるのはストレスでしか無いと思います。一刻も早い軌道修正を希望します。
なぜ尊敬されない教師が増えてきたのか
敬うとは、敬意とは、尊敬とは
相手を敬う気持ち、或いはそれに伴う行動の事です。武士の時代、特に武道などでは相手が目下、格下の相手であっても敬意を払うのは礼儀とされていました。それにより互いに尊敬し合った結果、信頼関係が築かれます。当然、短時間で信頼関係を築くことは難しいですが、特殊な環境、例えば生死の賭かった状況に居合わせた場合などは、急速に築かれる事もあります。しかし、現代社会においてそう言った状況に陥るのは稀なので、今回は除外します。
相手を敬うとはどう言った事でしょうか。辞書には『対象を高位のもの、上位のものとして礼を尽くす意で、「神仏を敬う」などのほか、「老人を敬う」「恩師を敬う」のように身近な相手にも向けられる』とあります。さっと読むと「高位、上位のものに礼を尽くすこと」つまり「同僚や目下、格下には払う必要が無い」と捉える人が居るかもしれません。「ものとして」と言う言い回しで「全ての人に礼を尽くすこと」と言う意図が含まれています。
過去の優れた賢人達の言葉や多くの既存宗教の教えには共通点があります。必ずと言っていいほど「全ての人に敬意を払いなさい」といった類の言葉が残されています。つまり「敬う」とは自らを含めた全ての人に対して持たなければいけない感情と言うことになります。
では、現在の教育現場で教師が生徒に敬意を払っていると言えるでしょうか。残念ながら、私は「生徒に敬意を払っている」と、感じる教師に出会った事が有りません。「そんなの私は出来てるよ」と反論された方は、間違いなく出来ていないでしょう。敬う心は上限がないので、出来ていると思う事自体が傲慢の証です。更に、殆どの教師が生徒から「敬意を払われる事」を望んでいます。或いは、「尊敬されて当然だ」と思っている人も居るかもしれません。相手に敬意を払っていないのに、自分にはそれを望むと言うのは、やはり傲慢でしかありません。それでは「信頼」関係どころか「信用」関係すら築けません。
人は鏡です。自分が行わなければ相手も答えてくれません。まず相手に敬意を払いましょう。
学校はサービス業なのか
よく「学校はいつからサービス業になったのか」と、言う人がいます。結論から言うと学校は発足当初からずっと「サービス業」です。それ以外に分類するからおかしな考え方が生まれるのです。
学校がサービス業である証左として私立学校の倒産が挙げられます。サービスが低下すれば需要(入学希望者)が減ります。当然収益(授業料や寄付金)が低下するのでやがて倒産へ向かっていきます。
サービス業ではないと考える人は教師、特に公立学校の教師に多く見受けられます。私立学校の教師は一般企業に近い(あくまで近いのであって同じではない)環境なので、公立学校の教師に比べればサービス業であるという自覚を持った方が多く見受けられます。
では、なぜ公立学校の教師がサービス業である自覚が無いのでしょうか。それは学校に関する法律と、公務員という立場が原因であると言えます。以前は公立小中学校が、現在は小中高全ての学校に無償化政策として税金から授業料が負担(私立は一部負担)されているので、生徒から授業料を受け取っているという意識が薄れています。ここが誤解される要因の一つであると考えます。
私立学校は生徒(実際は保護者)から支払われた授業料や寄付金で、自分たちの給与が捻出されているということを理解している人が多いからか、そういった誤解は少ないようです。しかし公立学校の教師は全員が地方自治体の職員です。つまり給与は地方自治体の税収から捻出されます。ここも間違った認識を生む要因の一つです。公立学校の教師は、仕組みとして税金から給与が支払われているので「生徒から受け取っている」と、思う人は殆どおらず、学校がサービス業だと認識している人が殆ど居ない結果に繋がっていると考えられます。
学校は生徒を成績で選別(入試)はしているが入学しても雇用契約を結ぶわけではありません。つまり、提供側(ホスト)は学校であり享受側(クライアント)は生徒という図式が成立します。授業などはサービスの提供であり、授業料はその対価となるので、明確にサービス業の定義に該当します。サービス業である以上、本来はサービスを提供し、その対価として収益を得るわけです。
教師は「学校はサービス業である」と言うことをより明確に認識するべきです。特に公立学校の教師はもっと危機感を持つべきです。そうしないと税金泥棒と誹られることになりかねません。サービス業であることを正しく認識出来れば相手に敬意を払う事がごく自然な事だと認識でき、結果サービスの向上にも繋がるでしょう。
良いサービスとは
仮に全ての人が経済力を考える必要もないほどの富裕層であれば積極的に公立学校を選択する意味は全くありません。なぜなら私立学校の方が圧倒的に「サービスが良い」からです。
「サービスが良い」と聞くと、クライアントに対し平身低頭、媚び諂うのだろうと勘違いする人も居ますが、「サービスが良い」とは、良質なサービスを適正に提供する事です。お客様は神様ですが、神様だからといって何でも許される訳ではありません。ダメな神様は結界を張ること(出入り禁止や除名など)で丁重にお断りされます。つまり、敬意を払って配慮を怠らなければ、おのずと適正なサービスを提供するという事に繋がっていきます。
生徒の名前(ファーストネーム)を呼び捨てにするのは有り?
賛否が分かれるところではあると思いますが、私の考え方で行くとどんな状況でも「無し」です。
よく「団結力を高める為」とか「距離感を近くして相談を受けやすくする為」という理由で名前の呼び捨てをする教師が居ますが、はっきり言って必要でしょうか。団結するのは生徒同士だけで良いわけで、教師が呼び捨てにするのは明らかに「敬意が無いから」に他なりません。
呼び捨てにすると自己の中に「親近感」や「征服感」が生まれます。ここで問題なのは「征服感」です。殆どの教師は生徒から教師や監督の名前を呼び捨てにする事を許していません。明示的に許してなくとも、暗黙で言い難い状況を作り出していることも多いでしょう。しかし、これでは一方向の征服感なので当然「敬意」は無くなります。敬意を払っていれば生徒の名前を呼び捨てにする等と言った暴挙は出来ない筈です。
特に高校生は進学する人もいれば就職する人も居ます。社会常識を教えるという意味でも呼び捨てが常態化することは好ましくありません。「そういう場になればきちんとしますよ」と言って本当にきちんと出来る人を見たことがありません。一時的には出来るでしょうが、慌てた時や調子に乗っている時などに必ずボロが出ます。
名前を呼び捨てにする業界も確かに存在しますが、ごく限られた狭い範囲の話です。殆どの一般企業において名前を呼び捨てする行為は、現在のジェンダーレスな考え方では男女関係なくセクハラにあたります。また、呼び捨てする事によって「征服感」が生まれればパワハラにも繋がります。
正しくサービスを提供する為にも、適切な距離感を保つ為にも生徒の苗字に「さん」をつけて呼ぶことが適切であると考えます。
敬語で話す教師は近付き難い?フランクな(敬語を使わない)教師は好まれる?
フランクな物言いをする教師は信用できるでしょうか。その教師が同僚や目上、保護者など全ての人、全ての状況に対して常に同じ物言いなら別ですが、そんな社会不適応者が教師に成れる訳がありません。生徒の前だけフランクと言うことは生徒に対して敬意がない事の現れです。そんな教師は尊敬されなくて当然でしょう。
全ての人に敬意を払う事を心掛けていれば、全ての人に対して穏やかに敬語で話しかけるのが自然だと考えられます。それが出来ない人は、心のどこかに傲慢さがあるのでしょう。その傲慢さを自覚し、努めて無くして行けば全ての人に敬意を払うことが出来るように成るのではないでしょうか。
尊敬される教師に成るために
生徒、保護者、自分を含めた学校関係者、出入り業者に至るまで、全ての人に敬意を払い、努めて穏やかに敬語で話しましょう。常に敬意を払い、配慮を怠らなければ、やがて尊敬される教師になれるでしょう。